昭和42年1月21日  夜の御理解



  皆さんが、ここで信心の、稽古をしておられるが、それぞれにどのような信心の頂き方をしておるだろうかと、その信心の頂き方、頂き方遺憾によって、信心の育ち方が違うし、勿論、おかげを受ける、お徳を受けるということの、違いにまでなってくるわけですが、確かに、「月一つ影色々の踊り方」と、っとにお月様、そのものは同じであっても、その人のおる場所と言うか、その立場と言うかね、その頂き方と言うか、それによって、その形が色々変った影が、映ってくるというように、頂いておりますように、今日、先日からこれで二回目、この頃、学院に帰られたばかりの末永さんが、もう二回目の手紙を、やっておられます、その手紙の中に、「先生私のこういうような、心境と、こういうような気持ちを、皆さんに伝えてほしい」と、「このような素晴らしい有り難いおかげを頂かせて頂いておる、体の験を頂いておるということの有り難さを皆さんにも、分かっておられるだろうけれどももっともっと分かってほしい」と、「出来れば、こういう、この手紙はとっておいて皆さんにも見せてあげてほしい」といったようなことが書いてある、その、手紙を読ませて頂いてみましょう。
  拝啓「おかげを頂きまして有り難うございます、本日只今、学院性、第三次入殿を終了させて頂きまして有り難うございます、開殿式のさい、立教神伝奉唱の時、左手中指と薬指に、赤ダイヤの指輪をした手を頂きました、中指のダイヤの方が大きく、純金の輪に入っていました」と、これは御心眼を頂いたらしいですね、「私いよいよ、有り難く、有り難いと思いますことは、親先生が入学以来、私の側に、付き切りで信心の伝上をしていて下さるということであります、椛目に道を求めて、来られる方のために、この便りは保存して頂きたいと思うほどであります、こういう信心の世界があるということを、教えて上げたいのであります、教祖生神金光大神様に発する手続きは、有り難い、い~、たびっ、たいものです、椛目の場合その御神徳のタイプとでも申しましょうか、それが全然詰まっていないという事であります、家族中で信心を頂く、一族中で頂く、それがなによりも、証明であります、私はあらゆる人を通して、また自然の事象を通して、心の中で起こってくる成り行きを通して、そこに師匠を、生神金光大神様を、発見し、頂いております。
ふし、我に生き、我ひにいく、高橋正雄先生の御信心を通しても、おおいに視界であります、これは、これらは、これなら、自分も納得がいく、助かっていく、親先生も喜んで下さるだろう、神様も生神金光大神様も喜んで下さるだろう、人も助かるだろうと思うのであります、桜井先生は以前、「神愛一心一刀流」を頂かれましたが、私は、直神、」ただちの神と書いて、ちょく、直神と書いちゃる、「直神カゲユウを頂いたような気がいたします、神愛を神愛たらしめていく、いくには、受ける心によって、ゆう、」ひそかな、秘密の秘ですね、大きなタチと書いてある、「秘タチ、を屈して、行かなければなりません、難即みかげ、親先生を頂くも手続きも、生活の現場の中で死んだと思うて欲を放して、カッコ(生きてゆく事)みなそうであります、そして段々分かってきますことは、親先生はもう途方もない所へ行っていられるということであります、これから私は生活の現場の中で、神の頼みを実動、実現して行きたいと願う次第であります、今朝私、親先生より、「これから先は神抱」神の抱と書いてある、「辛抱の杖を、持って行けと言われたような気がいたします、大変に有り難いと思いますことは、親様に喜んで頂けるようになってきたことであります、希望を繋ぐと言いましょうか、初代からの念願でありますところの、壱岐の中心、郷ノ浦の布教実現に夢をかけてくれるまでになってきました、断じて言えることは、親先生を通して権限されて、いられるところの生神金光大神様のおかげであります、それが親様実在の内に出来てくるということはなんと有り難いことでありましょうか、親先生が私の心の中に、衛生生き通しに、ぞんざいされるまでにおかげを頂きましたが、本当に道を求め,」え~、「求められる方に大声して教えてあげたいと思います、現在まだ親先生が御存命であられるその肉声を通して、手に触れ、足に触れ、命に触れながら教えが頂けるのは今だ、ということであります、しんじっ、信心の道は(まけまし?)と教祖様は言われましたが、百ヶ日間の最後の御修行を終えられ、いよいよ神上がり、上がりされる時、いと心安しの御心境であらせられたとのことでありますが、的なくても、その目標があります、実は親先生が私に教えて下さる「美しくなる」ということと、その目標が同じであるということであります、ほんの今朝の事でありましたが、そうした事が師匠無くしてどうして私ごとき者に分かりましょう、私には新たな願いが出来ました、私の心にぞんざいしているところの親先生と申しますか、生神金光大神様をいよいよ、大きく現して行き、あさないうなに、お話がしてみたい、ということであります、そこに本当の取り次ぎというものがあるような気がいたします、思いもかけない、なかった世界が出現して行くので、あれよあれよと思わぬばかりであります、それでいて、自分は決して狂ってはいないのぞと思ってみたりしております。敬吾」と。
  本当に教会の長男に生まれてから、教会を継ぐというようなことを夢考えなかった私に、い~、教師を志望さして下さるということだけでも有り難いが、しかもその、お~、荒地の布教地へ、に、目指して、自分が布教に出れれるという自信が、段々自分の心の中に強うなってきたということがです、何と言うその、有り難いことであろうかと、お~、いうことですね、本当に、ここにも書いてございますように、結局、その、自分の師匠、いわゆる私ってね、「本当に道を求めておられる方に大声して教えてあげたいと思います」と「現在まだ親先生は御存命である、その肉声を通して」言わば、「声にも触れることが出来る、足にも手にも命にも触れ、教えが頂けるというのは今だ」というように、感じておられるんです、それが、どうでしょうか、これは特に、私共の家庭のことを申してみますとです、本当に、私自身もそれを思います、もう本当に私が今椛目で伝えておることは、(?)ないことだとこういうことです、それを本当に、眠ったまま頂いたり、ね、いや眠ったまま頂きゃいいけれど、ねむっ、眠ったまま頂かなかったり、頂いてもそれを行じようとしなかったり、それをもっと追求しようとしなかったり、そして自分の心の中に、末永さんが頂いておるような、なにも、なんにも(?)ていないというならばです、これは、私の話しも、言うなら、ここ、ここ同然、なんにもならないということになるのです、私のような者が伝えるその、お話というのは、ね、そのまま、生神金光大神のみ教えとして、末永さん頂かれるところにです、ね、やはり私の側には、親先生がいつも付き通しについておって下さるというような体験が生まれ、どういう荒地、どういう、例えば荒布教の中に出て行っても、大先生がついておって下さるんだという、元気が出るというような、私は、底力のようなものは湧いてはこないと、思うのです、私がここで、こんな風に申しますのは可笑しいですね、可笑しいです、私のことをこういう風に、言うておられることを申し上げるのは可笑しいですけれども、私自身がそう思うんです、私自身が、この頂いておるこのみ教えを、お互いが粗末にしちゃならないと、ね、本当に惜しいです、朝の御祈念なんかの時にはもう本当に、これを本当に、誰にでも頂いてもらいたいと本当に思うです、ね、それならうんなら、(?)でも頂こうというような意欲もなく、ね、何故意欲がないかと言うと、それを行じようという信心の、喜びとか楽しみとか、自分が本当に助かろうという願いがないからです、ね、末永さんなんかはその点、本当に道の教師として、取り次ぎ者としての、お~、おかげを頂きたいという一念がです、ためにはまず自分自身が助からなければならないと、もう私は感心するくらいに、椛目で頂いておる、椛目の信心の焦点といったようなものを、色っ、私が色々な表現で申しておりますことを、一つ一つ覚えておられることですね、特に、桜井先生には私は教導しておっ、さして頂いておった時分の、ことなんかを非常に、あの、厳密なくらいに色々覚えておられることですね、いかに当時から真剣であったかといったようなことを、感じます。
  お互い、せっかく頂くのでございますから、ね、もう、お月様は一つです、私共の、いわゆる踊り方、場所一つによって、影が違うてくるのです、頂き方一つで、いわゆる、それが、おかげにもなりゃぁ徳にもなる、いやおかげにも徳にもな~んにもならんと、やはりただのお話ということに、なったんでは、本当に惜しい気がいたしますですね。                                                                                どうぞ。